テレビを見ない理由と見る理由

最近、テレビを見ない。というか、あまりに見ないもんだから、前のテレビが壊れたときに安い24インチのPC用ディスプレイ + HDDレコーダー(チューナー代わり)という構成にしてしまって、テレビを見るのにすごい不便な環境になったはず*1なんだが、全く不便を感じていない。
だって見ないもん。普段は。全く。
見るものといえば自転車のレース(Jsports/CS)とF1(フジ721/CS)だけ。地上波はたまーにCDTVを録画しておいて見るくらい。それ以外は、ほんとに全くカケラも見ない。

 第2は、マスメディアとユーザーの関係の変化である。YouTubeなどに違法に投稿された番組も含めれば、ネット上ではユーザーは見たいときに見たい映像を見ることができる。ハードディスクレコーダーの普及も「見たいときに見る」というユーザー主導の習性を後押しする。その影響が、マスメディアとユーザーの関係にも及んでいるのではないか。放送局が設定した時間にユーザーをテレビの前に座らせて“見させる”いまのビジネスモデルが危機を迎えているといえる。

 第3は、番組の質の低下である。本当に面白くて世間が注目する番組ならば、誰でも見たがるはずだし、その際はパソコンや携帯よりもテレビの大画面の方が好まれる。例えば、ネット配信(=テレビ離れ)が急速に進む米国でも、今年2月のスーパーボウルはテレビの歴史上2位の視聴者数を記録した。番組自体がつまらないから、ユーザーはテレビから離れ、広告費も離れて行くのではないだろうか。

テクノロジー : 日経電子版

この2点が、今でも完璧に通用する分野がある。そのことを筆者自身が(知らずに?)指摘している。スポーツのライブ放送だ。

スポーツのライブ放送の向こうには、世界のどこかでリアルタイムで戦っている選手の姿がある。ライブで観戦していれば、どんなニュースサイトの結果表示よりも早く、詳しく、その流れを知ることができる。
番組の質は実況と解説の質にもよる*2が、元となるコンテンツ自体の質は世界トップレベルのものを放映していれば文句は無いし、どんなスポーツでも、日本トップレベルのものだって見られないってことはないだろう。
はっきり言ってしまえば、自分にとってはどんなマイナーなスポーツの中継でも、1年経てば忘れられるそのへんの芸人なんか見てるよりはるかに楽しめる自信がある。

日本ではプロ野球中継があるが、これだって視聴率は下がる一方じゃないか、これはどうなんだ、という話がもしかしたら出てくるかもしれない。
あたりまえだ。同じスポーツばっかり、しかも巨人ばっかり放送してて人気が保てるか。馬鹿か。
あと高校野球を見て嬉しがってる人も理解できない。なんでわざわざ未熟な選手ばっかりが、しかも連戦でやってる大会を有り難そうに見てるの? レベル低くてつまんなくない?

スポーツ中継を増やすことのメリットはもうひとつあって、スポーツ選手やチームの側の広告受け入れ幅が増えること。
社会全体での出稿の余地が広がるし、そのスポーツの関係企業はCMを打つことも増えるだろう。コンテンツとCMの内容の方向性を合わせるってのはCMの価値を高めるはずだ。*3

ということで、スポーツのライブ中継に限って話をしてきたけど、例えばライブを中継させてくれる歌手もいるかもしれないし、落語でもお笑いでもプロレスでも、今はライブ中継してないようなものだってゴールデンに出してみれば受けるだけの余地があるかもしれない。NHKロボコンはライブがとても映えるコンテンツのひとつだと思う。
スポーツばかりだと男性向け……なのかな? 女性向けに何をやったらいいのかは正直よくわからんけど。

タイムシフト視聴・オンデマンド配信が当たり前になる世の中で、テレビの極めて強力な利点である同時公衆送信をテレビ局が活かさないのなら、そんなテレビ局は存在する価値がないと思う。実際、自分にとっての地上波テレビ局のほとんどは存在価値がない。そんな局はさっさと潰れてしまえ。

*1:何しろリモコンで電源も入れられないし、音も外部スピーカーだからそっちの電源も別でリモコン無し。

*2:F1の地上波放送はこの点で最悪だ。実況は日本に縁のあるチーム/選手のことに拘るか、もしくは絶叫するしか能がない。

*3:その意味でもバラエティばかりという状況は最低だ。スポーツ関係企業はどの番組にスポンサー料を払えばいいの?

言語にもフレームワークにも「わくわく」したくない

しばらく前からRailsを追う気がしなくなったり、もっと前からPerlを使いたくなくなったあたりが書かれていたのでなんとなくエントリを起こす。

逆にRubyは「わくわく」しない言語だった。だからこそRubyな人達が「わくわく」と言うのに違和感を感じるんだけど。じゃあなぜ「わくわく」しないかと言えば、
出来て当たり前のことが当たり前に出来て、
たいていのことがサクっと当たり前に出来る
からだ。つまり、学ぶ前からわかってしまっている部分が多いから、「わくわく」する余地がない。それじゃあつまんないって言うかも知れないけど、それって「実用言語」としては素晴しく良いことだと思う。学習する前から機能が納得出来るんだから。つまり、「わくわく」しないことは美徳なのだ。

プログラム言語に「わくわく」なんていらんでしょ | おごちゃんの雑文

書きたいものがあるときには、道具のために学習の労力なんて払いたくない。書きかたなんて気にしたくない。
作りたいもののために全力を使いたいんだ。どう書くかを気にしたいときじゃあ、今はないんだ。自分は今このとき、書きたいもの、作りたいものだけに「わくわく」したいんだ……。

# 記述中に失われてしまったと思っていたもの。
# 自動バックアップなんてあったのねー。ということでほんの少しだけ書いて残しておく。

Gマシーンの行きつく先

Googleストリートビューが話題になっているのに、もうひとつの「先例」とその先にあるものについて話題になっていないので、書いてみる。
ちなみに、書いてる内容自体は妄想100%だから、信じちゃダメだよ!

Gマシーンは、地球上の公的領域にあるものを全てスキャンし、私的領域にあるものを全てクランチするまで止まらない。スキャンされるかクランチされるかを選ぶ権利は人類に残されている。でも、それ以外に人類に望めることはもうないだろう。

Gマシーンの目覚め - アンカテ

ストリートビューのこれから

日本でリリースされたこの機能も、多数の拒否反応を押し潰しながら、次第に「有ることが当然」のものとして受け入れられていく。人は路上から見られることを当然と思いつつ塀を高くし、路上に出たときにGoogleカーに撮られることを「通行人に見られることと同じ」こととして受け入れるしかなくなっていく。

Googleの撮影インフラはある日、極めてクールなブレイクスルーの結果、ストリートビューの範囲となっている地域を極めて高頻度に撮影し直しアップデートしていくことを可能にする。
1ヶ月毎、1週間毎、1日毎、6時間毎、1時間毎……。

Google Healthのリリースと強化

Googleはその一方で、Google Healthをついに日本でリリースする。

病状と診断記録、投薬情報、X線画像やCTスキャン映像まで、あらゆるデータを取り込むように肥大化したGoogle Healthに、医師不足、人間不足で喘ぐ日本の病院はのめり込むようにして依存していく。

Google依存症先進国・日本での医療事故

もはやGoogle Healthのアカウント名通知無しでは風邪の診察ひとつ受けられなくなった日本の片隅で、ひとつの悲惨な医療事故が起きる。
原因は、他人のGoogleアカウント乗っ取りと詐称による既往歴情報の取り違い。他人の既往歴を元にした診断が元で、なんでもない病気の患者はあっさり死亡する。

世間は爆発した。Googleがアカウント情報に、本人を確認できる情報を載せていないのが悪いのだ。
Google Healthは顔写真くらいはアカウントのプロフィールに載せるべきである。既にストリートビューで実施されている程度のことだ。名前と顔が結びつくなど、見ず知らずの第三者でも少し調べればわかる。何か問題があるのか?

そしてGoogleのプロフィールには、個人の顔写真と全身像が掲載される。

あるクールなエンジニアの20%ルール

ここに、大勢の人々の、顔写真と全身像、それにX線撮影画像がある。
一方でストリートビューには、今や10分毎に更新される、街の人々の全身像が数限りなく映っている。

顔の一致、全身のサイズの一致、X線画像による骨格からのポージング可能範囲推定、これらから、ストリートビューに映っている「この名無しさん」に名前をつけてあげることは可能だろうか?
もちろん可能だ。彼はクールなエンジニアなのだから。
そして一人の名無しさんに可能なことは、そこに映っている全ての人に可能なことだ。

倫理的な問題は?
無いんじゃないの。名前なんて今や誰もが、自分のiPhoneP2Pアプリに登録して周囲に垂れ流しているじゃないか。そこに居るならわかる情報を、インターネットに流すことはGoogle的に全く問題の無い行為だ。
ストリートビューの時もそうだったろう?

「わかってない」と言いながらわかっている件

言葉で言われたことしかわからない、と言うくせに自分でハナからそれを裏切ってる。

僕は、いま目の前で僕に語りかけている人の気持ちがわかりません。

http://anond.hatelabo.jp/20080530040045

ほほう。

気後れする。
僕の目の前にいる、あなた。
一見すごくたのしそうに僕の話をきいてくれているようにみえて、
本当はその友好的な目の奥で、僕をシビアに品定めしているんだろう。
わかってるんだ。

http://anond.hatelabo.jp/20080530040045

わかってるんじゃん!

いや本当に。言葉で言われたことしかわからないなら、そして相手が「言葉で言っていることと違うことを思っている」と感じたなら、それを言葉で言えばいい。わからないなら自分から伝えろ。

そうしたくないなら、それはアナタが、言葉以外の方法でコミュニケーションをとりたがっている、ということなのだ。
自分がやりたいことがわかっているなら訓練すればいい。やりたいのに訓練はしたくない、というのはきっとアナタが一番嫌がることだろう。

中二病は声を大に言うものでなく、心にそっと秘めるもの

これって自分としてはごくごく当たり前のことだと思ってたんだけど、世の中の人は自分の内面まで余すところなくネットに晒しちゃって、内部にとても人には言えないような恥ずかしい妄想を抱えてたりはしないんだろうか。

率直に言うと、僕は、自分を中二病だと思っているけど、それって自分的にはごく普通のことなんじゃないかなとも思っている。
 うまく言えないけど、僕は社会にすんなり適合できる人ではないし、でもそれなりに適合もできる人だったし、というか、自分の内面と社会は分けている人なんで、内面の側はけっこうそのまま。

中二病とかだけど - finalventの日記

極めてトラディショナルな話としては、本棚の中身は他の人には見せたくない、とか。アイツ普段あんなにマッチョくさくスーツやってるのに、本棚の中身はSFとファンタジーと恋愛小説とライトノベルなんだぜー、みたいなのはあって、それを世の中に晒すなんてとんでもない。

自分が歳をとり、就業年数も増え知識と経験を身につけるにつけて、仕事上の影響力とかが増えていっているのは実感としてわかる。
が、それはそれとして、それこそ中二の頃から欠かさず脳内で展開されていたような妄想は今も留まるところを知らなくて、結局「妄想のスタート地点が今から3年後くらい」ということがずっと固定されているような状態が続いている。そして、そんなものを飽かず抱えこんでいる自分に呆れたりもするんだけど、その一方でその妄想がこれからの人生のある地点での起爆剤になるんじゃないかという『妄想』もあったりするわけだ。

ブクマコメとかトラックバックとか見ると「いまさら中二病だってプギャー」みたいな反応も目立つけど、そういう人達ってこれからの人生にどういう先を見てるんだろう。今の立ち位置から完全に連続した場所しか視界に無いのって楽しいんだろうか?

天才と言われるのも努力の人と言われるのも同じこと

なぜこんな話をするのかというと、彼女が僕にかけた呪いが、長きに渡って僕を苦しめ続け、僕は苦悩し、のたうち回り、運命を呪う羽目に成ったことと今日のテーマに関係があるからだ。

長文日記

これだけだと「世の中にそういう苦しみを抱えてる人って結構多いと思う」で済むんだけど。

努力の人と言われるのと、天才と言われるのが、どちらが良い結果につながるのかと考えれば、おのずと言わずにはいられませんでした。

天才という言葉は、生きている人にいう言葉じゃない気がする - ホームページを作る人のネタ帳

「努力の人」と言われるのも「才能無い」「努力し続けないとダメ」と言われてるに等しいので、別に意味としては変わらないと思う。「才能あるけど努力し続けてるからすごい」でも同じかな。

誰でも同じ苦しみかたを(少なくとも一時期は)してると思う。
自分は「いやできるかも知れないけど壊れたくないのでこのへんで。」と諦めを公言することを覚えてしまった。
生活としては楽だし楽しくなったけど、能力を最大限に発揮している人達の鉄火場へ突入することができなくなっているんじゃないかという怖れがあって、それはそれでコンプレックス化しかけているような気がする。

マッチョとウィンプという括りでは表現されない人種

マッチョとウィンプという単語は極限状態にある人間の種類を正しく表していなくて、それではてなで交わされる議論を見るたびに「俺はマッチョじゃないんだけど、でも……」という発言が頻出するんじゃないかと思う。

これは難易度順でもある。最も難しいのは、現実を変えること。次に難しいのは、自分を変えること。そして最も簡単なのは、逃げること。

マッチョとか強者とか言われている人は、例外なくこのことを体で知っている。彼らは強いのではない。自らの弱さを熟知しているだけなのだ。

404 Blog Not Found:逃げ上手は生き上手

現実を変えられる人、自分を変えられる人、逃げられる人、全部がマッチョ? それじゃ話が拡散する一方じゃないかな。

逃げるのは簡単という場合、なんとなく簡単な対処としての逃げる、というのがあるのだけど、自分の実感としては、逃げるというのは倒壊する建物や、勝てない猛獣に向き合うように自然な対応なので、現実的には、そういう自然な対応が心理的・制度的に阻害されているという状況をどう認識するか対処するかという問題だと思う。

 別の言い方をすると、危機の認識が間違っていると、自然に逃げられない。

逃げること - finalventの日記

じゃあ誰が自然に逃げられないんだろう?

逃げる人と逃げない人

極限状態、例えば冬山での生存戦略を論じるために、極端な4種類の人間を考えてみる。軸にするのは筋肉の多寡と、脂肪の多寡。

筋肉が多く脂肪も多い、ガタイのデカい人。
彼らは自由だ。脂肪があるなら冬眠してもいい。寒さも脂肪のおかげで遮断できるだろう。
周囲に快適な環境(例えば立派なログハウス)を建てることもできる。そうするだけの栄養は脂肪に蓄えられているし、筋肉がついているなら力も十分だ。
そして更に、彼らはその環境に見切りをつけて南国を目指すこともできる。スタミナはあるし、猛獣が出てきたら撃退できるだろう。多少の高山がそびえようとも、踏破することは難しくないかもしれない。

筋肉はあまり無いが脂肪が多い人。
彼らの戦略は極めてシンプルだ。冬眠をして、厳しい冬が過ぎるのを待てばいい。サラリーマンの過酷な新人生活だろうと何だろうと、じっとそこに居座って時が経つのを待てば、あとは春が来るということを彼らは知っているのだろう。

筋肉はそれなりにあるが、脂肪が無い人。
彼らにとって冬山は極めて危険だ。栄養の貯蔵庫である脂肪が無いなら常に食料を得なければ飢え死にが待っているし、断熱材としての脂肪も無ければ動いて発熱するしか寒さをしのぐ方法は無い。
彼らは冬山に留まることが死を招くと知っている。猛獣と長時間戦うのが死を招くと知っている。「どうしようもない」と判断することに躊躇しないし、そう判断したのなら一直線に南国を目指すだろう。
もちろん真っ直ぐ南を目指すのは最適解じゃないかもしれない。南だと思った方向は北かもしれないし、うまく南に進んでも待っているのはアルプスかもしれない。猛獣の棲む谷かもしれないし、強固な砦を築いて侵入を拒む人間かもしれない。途中で結局飢え死にするかもしれない。
でも、留まるという選択肢が無いのだから、南に向かって走る意外には無いのだ。

筋肉に乏しく、脂肪も豊富でない人。
彼らにとっても冬山は危険だ。だが、筋肉に乏しいという自覚があれば、あたりを積極的に動き回ることも得策でないように思われる。選択肢は無く、困難は険しい。
行動力に乏しいからか比較的群れるようになり、周囲に似たような人々が散見される。みんなで身を寄せあって暖を取り、できるだけ動かずに栄養を節約する。そうして、厳しい冬が過ぎていくのをじっと待つ。
南国に向かって走って行く奴はすごい。奴等には自分たちには無い筋力があり、だから走っていくことができるんだろう。困難があっても乗り越えられるんだろう。
ここがそれなりに危険な環境だというのはわかるが、でも走っていった先の困難を乗り越えられる筋力は自分には無いから、ここでじっとしていよう。

待つのは集団での凍死だ。じっとしていても養分は減る一方で、筋力はますます衰えていく。
冬が予想よりもちょっと長くなれば、それだけで致命的になるだろう。

ムキムキマッチョマンよりも長距離ランナー

北国の冬山から走り出して南国に着けるのは、ムキムキマッチョマンもかもしれないけれど、多分長距離ランナー型の方が多いだろう。
大事なのは瞬発力じゃなくて、限られたエネルギーを効率的に使って、イーブンペースで淡々と走り続けることだ。道が長くても坂が険しくても、足を止めずに走り続けられる人だろう。

そして長距離ランナーに大事なのは筋肉が多いことでも、脂肪が多いことでもない。脂肪をできるだけ減らし、必要最低限の筋肉だけをつけること。
彼らは実際、筋肉が多いようには見えない。でも走れば驚くほど長距離を走っていくだろう。

その場で環境を変えるだけの瞬発力は出せないかもしれない。
でもログハウス建築家になりたいのでなければ、多分、多くの冬山サバイバリストがなりたいのはムキムキマッチョマンじゃあ無いだろう。

そうそう、冬眠して冬を越せる人になろうとは思わないこと。
それまでの生活でも脂肪を蓄えられなかった人が、冬山で蓄えられるわけがない。

長距離ランナーに必要なのは走り出すこと

もちろん、どんな長距離ランナーも最初からそんな体型だったわけじゃない。
そして長距離は、どんな人でも、地道なトレーニングを「まず始め、そして継続する」ことである程度得意になれる種目だ。

必要な筋力は、走っているうちに少しずつついていく。不要な筋肉は減っていくかもしれない。
そしてもちろん、走り出すのに邪魔な脂肪も落ちていくだろう。
体が軽くなれば「やばい、かも」と思ったときに、きっと体は動いてくれる。毎日の訓練はそういう自信を誰にでも与えてくれる。

経験してみれば、逃げるために走り出す一歩なんて、そんなに重いものでも長いものでもない。